新・じゃのめ見聞録  No.4

   レクイエム2012年

―戦争と殺人と―

2012.11.24


 「千人殺してみなさい、そうしたら往生できる」と親鸞が言ったとき、弟子はそんなことできませんといったので、「往生のために千人殺せと言われても一人も殺せない。それは自分の心が良くて殺さないのではない。殺すべき業縁(ごうえん)が備わっていないからだ。でも、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえある」と親鸞はいった。(歎異抄第十三条)

2012年、NHK大河ドラマに「八重の桜」が決まったことへの喜びではじまった女子大に、突如残忍な同僚殺害事件が起こったとき、なぜかこの親鸞の言葉を思い浮べていた。「良心を手腕に運用する」校風の大学で、なぜこんな残虐な出来事が起こったのか。この事件は当初から、例外で、特異な事件としてみなすしかないように私にも感じられていた。でもその一方で、自分には関係のない出来事なのだろうかという思いもあり、もう少し広げて、「大河ドラマ決定」と「事件」の間にも、何のつながりもないのかどうか、できる限り考えてみたいと思うようになった。

 もちろん、「八重」のことも「事件」のことも、何かがよく分かっているわけではない。よく分かっていないのなら考えるべきではないという事もあり得るが、でも少なくとも分かっている共通項がある。NHKは何を思って八重のドラマを作ろうとしたのかはわからないが、制作者側にあるのはまずは「狙撃兵としての八重」の姿であることは間違いないであろう。「女でありながら鉄砲を撃って戦った」というイメージ。それが八重自身の語った「武勇伝」の中から紡ぎ出される。しかしそこにあるのは、親鸞の言う意味での「人を殺す」という事情である。私に考えたいのは、その親鸞の言う「殺すべき業縁」の,自分に引き寄せられる限りの理解である。

考えられるのはこうである。利害のぶつかるもの同士に「交渉」の余地が残されていれば、対立する両者にはまだ双方とも「立つ瀬」が残される。しかし「交渉」の余地がなくなれば、力ずくで、それぞれの言い分を通すしかなくなる。その力ずくの対応が集団で行われれば戦争であり、個人で行われれば暴力や殺人という事になる。「交渉」の余地がなくなればなくなるほど、「相手」はもはや「ひと」ではなく「敵」にしかすぎなくなる。それは「語る相手」ではなく「消滅させる相手」でしかなくなる。

江戸幕府が終わりを迎えるとき、追い詰められ、打算をもくろんだにしろ「交渉」を選んだのは徳川慶喜(当時31歳)だった。そのために江戸も江戸城も戦場と化すことはなかった。しかし、徳川を支えてきた会津藩は、藩政の腐敗や財政難を抱えつつ、「妥協」の道を選ぶことができず、当時の会津藩主・松平容保(当時32歳)は「戦争」に踏み切ることになる。もちろん、新政府に赦免嘆願書を提出するも認められず、新政府側の勝者の理不尽な対応もあったのだが、「交渉」は成立しなかった。その結果、日本史最悪の、老弱男女を含む会津城下町内での殺戮、鶴が城内の惨劇、白虎隊の悲劇が起こる。八重たちの「果敢な行動」も、この会津藩主・松平容保の「開戦の判断」の上でのみ成り立つものであり、すべて、この藩主の「開戦の判断」を共有することで起こった惨劇である。ここに「八重の武勇伝」と呼ばれるものが出てくるのだが、しかしこの異様な戦場下で起こった出来事を「武勇伝」というのは本当はよくないのではないかと私は思う。

吉海直人氏が1998年に発掘された「新島八重刀自懐古談」は本当に貴重な資料で、ここに「随分戦と云うものは面白いものでございまして」という有名な一文があるのだが、こういう一分のもつ「闇」をどう読み解くのかは,私たちの「会津戦争の深層」を見る力量にかかっている。

 八重や白虎隊の「果敢」にみえる行動の数々は、決して彼ら個人の判断に基づく行動ではない。会津藩主らの武士の意地と無謀な戦争判断を自らの判断にして実行されているものである。つまり「交渉」の不可能性と、「相手を人間ではなく敵とみなす」という判断の上ではじめて成り立つ行動の数々である。結局はこの後手後手に回る藩主らの判断のせいで、醜悪な惨劇が積み重ねられていったのである。これは第二次世界大戦で繰り広げられた惨劇にも似ている。なぜもっと早くに軍部は終戦を決意できなかったのか。なぜ原爆を落とされるまで「交渉」に応じることをしなかったのか・・。そして私は自分が結婚した当時、妻の父親から戦時中のインパール作戦の話を何度も聞いた時のことを思い出す。インパールはインドの東北部にあって日本の大部隊が全滅した恐ろしい戦闘の舞台であるが、その戦闘の場面で敵兵を迎え撃つ光景を図で描きながら武勇伝のように語る義父の話に、どうしても相づちを打てずに困った記憶がある。全く他人の話になら、それは「戦争の語り」として興味深く聞くこともできたかも知れないが、「身内」となると、それは「人ごと」のようには聞けずに、相づちを打てば「自分がしているかのように」感じて気持ちが悪くなったことを私はよく覚えている。指導部の命じた愚かな作戦の中で、語り継がれる個人の「美談」や「武勇伝」を、冷静に聞くのは本当につらい。

「交渉」の余地を残さないところで起こる出来事は、「相手の死」や「自分の死」である。八重がそういう惨劇を体験してきたことを、私は「武勇伝」にどうしても引き寄せられない。そういうことをすると、2012年10月に起こった「同僚殺害事件」との接点が見いだせなくなる。人は「交渉」する思考法を失うと、「強引」で「果敢」な行動に出てしまい、「相手を見失う」判断をしてしまうのであり、それは誰でもそういうことをしてしまう、ということになるものではないかと私は思う。

同志社の校祖は新島襄で、女子大の校祖にはもう一人新島八重がいるという言い方をするときは、同志社はそういう戦争という名の下の「人殺し」をしなくても済んだ人を校祖にもち、女子大は戦争という惨劇を生きた人を校祖に持つということにもなっている、ことになる。ということは、おそらく女子大は同志社以上に「人を殺す」ことの意味を、より深く考えることのできる位置にある大学なのだと考えることも本当はできるのではないだろうか。八重の深層には、おそらくおぞましい会津戦争を知らない人たちには共有できないものがあったと私は思う。同志社からの「孤立」。それは「会津戦争の傷」の深みが同志社側とは共有できない深みにあったからだと私は思う。その八重の深層は、新島襄が亡った3ヶ月後の篤志看護婦志願の動きとして現れる。狙撃兵としての八重から篤志看護婦への道のりは、おそらく新島襄の軌跡からは見えてこないものがある様に私には思われる。

私は、このエッセイの題にレクイエムとつけたのは、モーツアルトを意識してのことではない。そうではなくて岡林信康が2010年に発表した「レクイエム~麦畑のひばり~」の歌を意識してのことである。生前の美空ひばりが岡林に宛てた手紙の中で「自分は飛び続けるが、でも結末はバラ色の幸せなのではない。降りたい、やめたい、という自分がいた」と書いていたのを元に、岡林が作ったのだという。死へ向かう姿を歌う、不思議な歌である。「YouTubeでこの歌の発表時のステージがそのまま見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=f4iv6ZkxiE4

バックの山下洋輔のピアノ演奏も素晴らしい。私は、「悲劇」として殺したり殺されたりした人びとのすべてが「ひばり」と呼ばれ、この「レクイエム」が歌われていると思ってこの歌を聴いています。